最初におことわりしている通り、私はこの作品を見つめているだけの存在なので作家の考えていることをすべて理解しているわけではなく、ここに書いていることもいわゆる作品解説ではないしネタバレブログでもない。
なのでこの「なぜ6か?問題」についても正解を持ってはいるわけではない。
その前提で作品を観る際に観客として自由にそれを考えることが実に愉しいと思っている。
自らの感覚を働かせて作品を観ていれば作家の考えていることと一致することも多々あるとは思っているが、全く当てはまらないこともあるだろうし、作家の思ってもいないことを考えていく場合もあるだろう。
それをふまえて、この「6」について考えてみたい。
数学的に「6」という数字は極めて美しい。
まず「6」は最小の完全数であり、最小の原始疑似完全数である。
1桁の整数の中で唯一不足数でないだけでなく、半素数の中で唯一不足数でない。
また複数の素因数を持つ最小の数であり、2つの異なる素因数の積の形で表せる最小の数でもある。
何のことかと思われる方もおられるだろうが、これらを数式で表すと、
6 = 21 × (22 − 1)
6 = 2 × 3
となる。
実になんともない数式見えるかもしれないが、ここまでなんともない数式で条件なしに表現できる数字がそもそも1桁の整数の中に存在しない。
他にも倍積完全数としても調和数としても矩形数としても2番目の存在であったり、冪数がどこまでいっても1の位が6だったり(6は何回かけ合わせても1の位が6になる)と興味深さにいとまがない。
このおもしろさはダンスの中でどのように活きるかを考えると、まず階段を昇降するだけでそこに、1拍、2拍、3拍、6拍という4つのリズムが生まれる。
これだけシンプルな段数でそれが生じることが奇跡的であるし、このあと出現する数字ではどこまでいってもこれほどの音楽的な数字は見当たらない。
前述したタカラヅカの大階段の段数がその確立の過程で迷走してしまったのもそういうことが背景に影響しているのではないかとも想われる。
もし20~30くらいにこれほど美しい数字があれば、もっと簡単にその段数は定まったのではないだろうか。
時の流れにおいて、1年が12か月、(2月以外の)小の月が30日、1日は24時間、1時間は60分、となっているが、これらの最大公約数は「6」であって、実は人間の身体にはこの「6」のリズム周期が染み着いている。
例えば義務教育は6年・3年・3年だし、仏教の年忌法要も概ね6年ごとに営まれる。
逆に聖書では黙示録において「6」は7から1を欠く不完全な数とされているのもおもしろい。
これが3回繰り返す「666」は吉凶を表すとされており、その数字は獣の数字と呼ばれている。
完全数は紀元前に古代ギリシャにおいてピタゴラスに名づけられており、創世記では神は6日間で天地創造しており(7日目には神は休んでいる)、「6」の数字は神の完全性を示すものだともされている。
つまり人間はその頃から「6」という数字の不思議さに気づいており、それを宗教的な崇拝対象としていたのである。
それから「6」は三角数でもあって、『6steps』がソロ~デュオの構成のダンスになっていることや今回3人のダンサーの入れ替えで踊られることによって出現する構成パターンにも働きかけると想われる。
つまりその規則性に則ってダンサーを入れ換えても成立するダンスであり、それでいてそれぞれに異なる表情を見せる作品となることだろう。
古来から人間が外界を感知する機能のことを五感と呼ぶ。
この発端も古代ギリシャのアリストテレスだと言うから、いま私たちの考えることに全く新しいことなどあり得るのかとも思えてくる。
舞台を観る場合には視覚と聴覚を中心にそれらを使うことになるだろう。
現在では触角は表在感覚、深部覚、皮質性感覚に分けられ更に細分化されている。
それに加えて、内臓感覚や平衡感覚などを追加して感覚というものは20種類くらい数えられるそうだ。
だがそいうものを発見する以前から、五感を超越して理屈では説明しがたいものごとの本質に近づこうとする心の力を人は第六感と呼んで位置づけてきた。
ここでもやっぱり「6」である。