• 2022.4.7小屋入りから配信とワークショップを経て(うめ)

    小屋入りして3日、慌ただしい準備の中でその場に慥かに馴染んでいくダンサーたちを眺めながら時間を過ごしている。
    本番を前にしてここまで3つのイベントが行われた。

    「6stepsを組み立てる」(4月4日【月】)

    本番で使われる階段が会場に搬入されて組み上げられていく様子が動画配信された。
    パフォーマンスではないのでどこかで特に大きな盛り上がりがあるわけではないのだが、広いフラットなホールの中に2つの階段が徐々にその姿を現す様子はぼんやりとずっと眺めていられる印象を受けた。

    例えば演出家がいれば、何か効果的に見せようとするのだろうけれど、それはちょっと行き過ぎるとしばしば残念な結果になるのでとても難しい。
    ちょうどダンスにおけるそういう行為のことをこの期間中よくダンサーたちは「スケベ」と称して話していて笑いながら興味深く聞いている。
    『6steps』はもっと面白可笑しく演ることも可能だろうと想われるが、今回の演出においてはそのような行為は極力排除されながら構成されているように見ている。
    それをどのように観客が受け止めるかがこの作品の大きな分かれ目になるような気がする。

    それからこの配信を観ていて、悪魔のしるしの「搬入プロジェクト」を思い出したりもした。
    搬入される物体を眺めているといつもどこかのタイミングでそれが生命体のように思える時間が発生する。
    しかしそれが完全に設置されると再びそれは物質的な存在感を発揮する。
    舞台美術においてこの二面性はとても重要なことであるのではないかと考えている。

    設置された階段たちはそこにダンサーがいない時から不思議な雰囲気を醸し出してそこに在る。

    「6stepsの中で過ごしてみる」(4月5日【火】)

    出演者といっしょに6段の階段で実際に踊ってみたりしながら 2時間弱の時間を過ごした。

    今回の階段は一つは裏側から、もう一つは裏側と側面から中の空洞に入れる設計になっているのだが、参加された子どもたちが階段に昇ったりするよりも先に一目散にその空洞の中に潜り込んでニコニコ笑って喜んでいたのには結構驚かされた。
    大人になると階段を階段と認識すれば通常はもう昇降の道具としてしか思えないものを、子どもたちはあっという間に階段の階段以外の楽しみ方を発見してそれを実践して見せたのだ。

    参加者にはダンサーの方もおられたが、人が変わればそれによってまた新しいダンスが生まれるのが興味深い。このダンスは理想の踊り方があると言うよりは、ダンサー(昇り手)の数だけその拡張に可能性があるように思う。
    最後に実際の構成で挑戦してもらったがそれぞれの『6steps』が生まれていくように感じた。

    階段を昇るとその人の身体特性がよく見えてくる。
    階段は人の身体を映し出す鏡のようにも思えた。

    「6stepsを眺めてみる」(4月6日【水】)

    実際に通し稽古を観させてもらってご参加いただいたみなさんに感想を伺う時間をいただいた。

    今回映像撮影をされる鐘ケ江歓一さんにも協力してもらって、カメラ撮影で行われている望遠の様子を見てもらいながら、観客の目が実はそれと同じような働きをしていたり出来ていなかったりする感じをあらためて認識してもらった。

    また2階席から舞台を眺めてもらったり高低の差のある椅子に座ってもらったり自由に動きまわりながら眺めてもらうことも行ってみた。
    実際には観客はほとんどの場合観劇中割り当てられた客席に固定されてしまう。
    それは大変なことだが、舞台を観るとても大きなおもしろさだと思う。

    そしてこの人間の目のズームやフォーカスの機構については誰もが気づいていることではあると思うが、観劇の間にそれを意識することを維持しながら眺めることが出来たら、かなり見え方は変わってくるのではないだろうか。
    ただ結論的には、作品は観客それぞれ自由に観るものだと考えているし、それが一番大切だと思っている。

    終了後色々なご意見を聞かせていただいて、目から鱗が落ちるようなこともあった。
    トリコロールケーキの今田健太郎さんから「ダンス公演と言うより思考めぐらせ促進装置」という評をいただいたが、私も同感で言い得て妙だと思う。
    ただこれは演劇人である今田さんや、どうしても舞台上にドラマを求めてしまいがちな私の観方ゆえでもあって、もっとダンス側に寄った観方をされる方はまた違った感想を持たれるかもしれない。

    前述の通り少なくとも今のところ『6steps』は安易なおもしろさは排除する方向に進んでいるように思う。
    このように意見を伺うことにより作品はまた変わったり変わらずにより確固としたものになったりしていくのだろう。

    (4月7日【木】)
    さて今夜いよいよ本番である。

  • 2022.4.1流れる時間の中での『6steps』(うめ)

    「steps」と「stairs」の違いの話をしたが、そのことをもう少し掘り下げたい。
    「今なぜ階段なのだろうか」と考えた時にも思ったことだが、現代建築の中では「steps」はなるべく少なくする工夫がなされている。
    既存の「steps」も「slope」へと置き換えられる潮流にあある。
    実は「steps」は絶滅危惧種なのである。

    他方「stairs」はまだどうしても必要で新しい建物の中にも必ず組み込まれている。
    しかしそれでも近年の高層の建物になると一般の来客には階段が解放されておらずエレベーターやエスカレーターの利用を誘導されて、おまけにそれらは結構待たされたり遠回りをさせられたりとちょっとした上下移動にかえって不便を感じることも多々ある。

    そしてこのような建物に設置されているのが非常階段と呼ばれる階段である。
    ちなみに非常階段は英語で「emergency stairs」とか「emergency staircase」であって、やはり「emergency steps」とは言わない。
    「emergency steps」と言うと「緊急措置、非常手段」の意味でとられるのではないだろうか。
    それから「staircase」は室内の手すり付きの階段というニュアンスの言葉だが、それに対して屋外の手すり付きの階段に対して「stepcase」ということもない。
    こんなところからも「steps」と「stairs」の違いは感じ取ることができる。

    さて『6steps』では今回の公演に際して一から階段を製作している。
    そこには時の流れに逆行するとか時の流れに抗うまでの考えではないだろう。
    ただ子どもの頃の階段の記憶と懐旧がモチベーションとなってそれをさせているように思える。

    だがこれからも時流は「steps」の意味や存在意義を少しずつ変えていくだろう。
    どれほどの未来になるかはわからないがいずれ「階段」のない時代が訪れるかもしれない。
    それは私たちが生きている時代かもしれないし、もういなくなった時代かもしれない。
    そのような時間の流れの中で『6steps』がレパートリー作品として踊り続けられたなら、それはなかなかおもしろいことではないかと思う。

  • 2022.3.28 Steps or Stairs(うめ)

    英語で「階段」を表す言葉には「steps」のほかに「stairs」がある。
    ネイティブの人に何人か聞いてみても厳密に使い分けている感じはあまりないのだが、辞書的には「steps」は屋外にある階段、「stairs」は室内の階段という違いがあるようで、あらためてそのように聞いてみると大体「あ~そうそう」という感じの返事がかえってくる。

    今回の『6steps』は室内での上演になるので『6stairs』なのではないかとも思うのだが、「stairs」の室内のニュアンスは少し違って、建物の中で上下の階を繋ぐ階段のことである。
    一方「steps」は屋外のちょっとした石段のような階段を指すものである。

    『6steps』では舞台装置として6段の階段が用意される。
    この階段は6段だけの階段で上下の階を繋げるものではない。

    ただ6段あるだけの階段である。

    またコンセプトは階段を用いた新しいアソビなので、その場所は室内であっても屋外の階段ととらえるのが適当なのだろう。

    『6steps』ではその準備運動として、メンバーがあちこちで見つけた気になる階段をInstagramから紹介している。

    6steps Instagram

    眺めていると階段に手招きする誰かの姿が浮かぶような気がする。
    観劇の前後でちょっと覗いてみて欲しい。

  • 2022.3.25.なぜ「6」か(うめ)

    最初におことわりしている通り、私はこの作品を見つめているだけの存在なので作家の考えていることをすべて理解しているわけではなく、ここに書いていることもいわゆる作品解説ではないしネタバレブログでもない。
    なのでこの「なぜ6か?問題」についても正解を持ってはいるわけではない。

    その前提で作品を観る際に観客として自由にそれを考えることが実に愉しいと思っている。
    自らの感覚を働かせて作品を観ていれば作家の考えていることと一致することも多々あるとは思っているが、全く当てはまらないこともあるだろうし、作家の思ってもいないことを考えていく場合もあるだろう。
    それをふまえて、この「6」について考えてみたい。

    数学的に「6」という数字は極めて美しい。

    まず「6」は最小の完全数であり、最小の原始疑似完全数である。
    1桁の整数の中で唯一不足数でないだけでなく、半素数の中で唯一不足数でない。
    また複数の素因数を持つ最小の数であり、2つの異なる素因数の積の形で表せる最小の数でもある。

    何のことかと思われる方もおられるだろうが、これらを数式で表すと、

    6 = 21 × (22 − 1)

    6 = 2 × 3

    となる。

    実になんともない数式見えるかもしれないが、ここまでなんともない数式で条件なしに表現できる数字がそもそも1桁の整数の中に存在しない。

    他にも倍積完全数としても調和数としても矩形数としても2番目の存在であったり、冪数がどこまでいっても1の位が6だったり(6は何回かけ合わせても1の位が6になる)と興味深さにいとまがない。

    このおもしろさはダンスの中でどのように活きるかを考えると、まず階段を昇降するだけでそこに、1拍、2拍、3拍、6拍という4つのリズムが生まれる。
    これだけシンプルな段数でそれが生じることが奇跡的であるし、このあと出現する数字ではどこまでいってもこれほどの音楽的な数字は見当たらない。
    前述したタカラヅカの大階段の段数がその確立の過程で迷走してしまったのもそういうことが背景に影響しているのではないかとも想われる。
    もし20~30くらいにこれほど美しい数字があれば、もっと簡単にその段数は定まったのではないだろうか。

    時の流れにおいて、1年が12か月、(2月以外の)小の月が30日、1日は24時間、1時間は60分、となっているが、これらの最大公約数は「6」であって、実は人間の身体にはこの「6」のリズム周期が染み着いている。
    例えば義務教育は6年・3年・3年だし、仏教の年忌法要も概ね6年ごとに営まれる。

    逆に聖書では黙示録において「6」は7から1を欠く不完全な数とされているのもおもしろい。
    これが3回繰り返す「666」は吉凶を表すとされており、その数字は獣の数字と呼ばれている。
    完全数は紀元前に古代ギリシャにおいてピタゴラスに名づけられており、創世記では神は6日間で天地創造しており(7日目には神は休んでいる)、「6」の数字は神の完全性を示すものだともされている。
    つまり人間はその頃から「6」という数字の不思議さに気づいており、それを宗教的な崇拝対象としていたのである。

    それから「6」は三角数でもあって、『6steps』がソロ~デュオの構成のダンスになっていることや今回3人のダンサーの入れ替えで踊られることによって出現する構成パターンにも働きかけると想われる。
    つまりその規則性に則ってダンサーを入れ換えても成立するダンスであり、それでいてそれぞれに異なる表情を見せる作品となることだろう。

    古来から人間が外界を感知する機能のことを五感と呼ぶ。
    この発端も古代ギリシャのアリストテレスだと言うから、いま私たちの考えることに全く新しいことなどあり得るのかとも思えてくる。
    舞台を観る場合には視覚と聴覚を中心にそれらを使うことになるだろう。
    現在では触角は表在感覚、深部覚、皮質性感覚に分けられ更に細分化されている。
    それに加えて、内臓感覚や平衡感覚などを追加して感覚というものは20種類くらい数えられるそうだ。

    だがそいうものを発見する以前から、五感を超越して理屈では説明しがたいものごとの本質に近づこうとする心の力を人は第六感と呼んで位置づけてきた。
    ここでもやっぱり「6」である。


  • 2022.3.24タカラヅカの大階段(うめ)

    階段を使って行うダンスと言って思い出すのはやはりタカラヅカのフィナーレで使われる大階段だろうか。
    『6steps』は全くタイプの違うダンスになるのだろうと思うが、タカラヅカの大階段を知らずに『6steps』を新しいダンスだと言ってしまうのもまた違うのだろうと思う。
    何か新しいと思うことを始める時に本当にそれが新しいのかという考証はとても重要で、そういう所にもドラマツルギーの必要性はあるように思う。

    大階段はタカラヅカの象徴とも言える舞台装置である。
    これがはじめてタカラヅカの舞台に取り付けられたのは1927年9月に行われた日本最初のレビュー「モン・パリ」で、この時の階段は16段だったそうである。
    その後段数は増加し一旦は50段になったこともあるようだが、現在は宝塚大劇場・東京宝塚劇場ともに26段に落ち着いている。 
    落ち着いていると言ったが、その高さは4m以上あり、2階建ての家と同じくらいの高さである。
    おまけに踏面は23cmでいくら女性とはいえほとんどの人が足をはみ出してしまうサイズだろう。
    実際にちょくちょく転落のニュースを聞くこともあるし、新人時代に大階段から転落するとスターになるという伝説まであるらしい。

    ちなみに、タカラヅカの大階段は108人まで乗ることができるそうである。
    そもそも何㎏の人が乗るのかにもよって違ってくるものなので、100人ではなく108人としているところにもこだわりがあるのだろう。

    さて『6steps』ではワークショップの予定もあるので是非実際にその階段に足をかけてみて欲しい。
    何気なく見えるシーンにどれくらいの緊張と集中が伴っているか想像できると思う。

  • 2022.3.22「踊り場」から「階段」を考える(うめ)

    「踊り場」とは、長く続く階段や曲がる階段の途中に少し広く場所をとった部分のことである。
    この言葉はダンスの界隈でもしばしば借用・転用されるが、その語源には色々な説がある。
    英語でこれは「landing」であって決して「dancing space」ではない。
    「踊り場」というのは日本人の考えた言葉であるようだ。

    まずよく言われるのは明治以降に日本に導入された西洋建築で用いられるその場所を裾の長いドレスをまとった女性が歩くと踊っているように見えるところからそのように呼ばれるようになったという説がある。
    もうひとつは京都の芸者さんが階段を昇った先の良く見える板間の上で実際に踊りを披露していたことからその場所を「踊り場」と呼ぶようになったという説がある。

    『6steps』は文字通り6段の階段であって「踊り場」は付属していない。
    「踊り場」のない階段で踊るダンスである。
    普通に昇降したのではそれを見た人にも踊っているようには見えないかもしれない。

    そして実は「階段」という言葉も江戸時代以前の日本には存在しない。
    当時は一般の住居は基本的に平屋であってそもそも「階段」が必要とされていなかった。
    「階(きざはし)」という段差を表す概念は平安時代ごろからあったようだが、城や宿の階層建築における上下移動の構造は「梯子」や「梯子段」と呼ばれるもので「階段」の文字は出てこない。

    山道や古い街並みに石段を見かけることはしばしばあるが、それらは往々にして「〇〇坂」と呼ばれている。
    つまり江戸時代までは「階段」と「坂」にも区別の必要がなかった。
    それがどうして「階段」と別の呼び方をするようになったのかを考えると、一つ思い浮かぶのは自動車の普及である。
    「坂」は車でも昇降できるが、「階段」は通常の車では昇降できない。
    車移動する人と歩行移動する人の道案内において「坂」と「階段」の区別の認識はとても重要なものであることは想像に易い。

    ここでかつて利便性を求めて作ったもの(階段)が新しく利便性を求めて作ったもの(車)を妨げるという関係が生まれている。
    それは以前にも書いた通り、「階段」が車いすや杖を使って移動する人の妨げとなることにもつながって考えられる。

    つまり発生の段階で「階段」という言葉は「人が自らの足で昇らなければならないもの」という意味をはらんでいたということになる。
    それに気づくとちょっと興味深くならないだろうか。

  • 2022.3.21今なぜ階段なのだろうか(うめ)

    現代社会において階段はエスカレーターやエレベーターへの置き換えが進められておりその使用頻度はどんどん減少している。
    エクササイズのために日常生活の中で階段を意識的に使用する人もいるが、それは社会的に階段が求められていると言うよりはそこに在るから利用されていると言う方が適切だろう。
    階段を利用するのが困難な人のために、それは取り壊されてスロープへと作り変えられていることも増えており、むしろ流れはそちらに向かっているように思われる。
    「非常階段」というものの名前が物語る通り、階段は常ならざる時に使われるものへとなりつつあるのかもしれない。

    子どものころ神社やお寺の階段は良き遊び場だった。
    学校の階段でふざけて遊んでいると先生から怒られた。
    実際に転落して怪我をした友だちもいた。
    それでも階段で遊んだ。
    上下移動のための階段というちょっとした負荷はその機能とは異なる形で人の遊び心をくすぐる仕掛けでもあるようだ。
    現代の子どもたちは階段で遊んだりするのだろうか。
    そもそも階段で遊ぶことを許されているのだろうか。

    『6steps』はそんな子ども時代へのノスタルジーであると同時に、いずれは階段そのものへのノスタルジーとなるのかもしれない。

  • 2022.3.13ベネッセハウスミュージアムにある階段(うめ)

    香川県の直島にあるベネッセハウスミュージアムに不思議な階段がある。
    建物は安藤忠雄の設計によるものだが、その階段を昇って行くと上の階のどこかの部屋につながることもなくコンクリートの壁に突き当たる。
    階段としてての本来の機能的な役割は果たしていないものである。
    というよりはむしろ第一感として「折角ここまで昇ったのに」というガッカリ感というか絶望感を生むための装置のようにも思える。

    しかし階段を登り切ったその場所には天窓が設えられており、天気の良い日には穏やかな日差しが差し込む。
    その時その先にある壁は人生の大きな壁と言えば大袈裟かもしれないが、日常のふとした上手くいかないことに対してそこで諦めるのか何らかの工夫や努力をしてその先に進むのかを問うてくるようである。
    設計者の真意は分からないが、ただのアソビ心というよりはもう少し深いメッセージがあることを想わせられる装置としてそこに在る。

    6stepsの階段を観ているとちょうどその階段のことを思い出した。
    その階段は壁には突き当たらないが、昇りきったらその先に歩いて進むことができない。
    6段を昇ってそこに立ち尽くすダンサーはちょうど同じようなことを思うのかもしれない。
    そんなことを考えると、宙へと続くその階段はどことなく人生の滑走路のように想えたりもする。

  • 2022.3.8そもそも階段とは(うめ)

    階段は「高低差のある場所への移動を行うための構造物」と定義されている。
    「6steps」の上演は階段のある場所ならば劇場以外でも行える可能性があると思われるが、劇場公演の場合は上演のために6段の階段が用意される。
    そしてこの階段は構造物としての階段だけが取り出されたものなので昇降することによって高低差のある場所移動はしない。
    ただ昇降するだけの構造物となるのが特徴的である。
    人は誰かが階段を昇り降りするのを見ると、階段を用いる人の目的をイメージするが「6steps」の劇場公演では、その目的が達成されることがない。
    例えば寺社仏閣の階段を昇る人を見れば、その人が参拝に行くことを想像するであろうし、駅のホームへの階段を降りる人を見れば、その人が電車に乗ることを想像するだろう。
    しかし「6steps」の階段ではそのような目的は何度階段を昇降しても叶うことがないのである。
    そこにこのダンスの「アソビ性」は在るように思われるし、同時に観客も更に自由な想像を許容されることになる。

  • 2022.3.4『6steps』のコンセプト(うめ)

    玲奈さん曰く、「『6steps』は階段を使った新しいアソビ」としている。
    しかし、WIPを観た限りではそのような印象は感じられなかった。
    木村玲奈らしいストイックで緊張感のあるダンスは一見して遊んでいるように見えない。
    6段ある階段を昇り降りしながらのダンスは何気なく踊っているようにも見えるのだが、フラットな舞台でのダンスと比較すればはるかに大きな負担がかかるものであることがわかるし、安定した体幹が要求されることの想像がつく。
    おそらくダンサーが変わることによって見え方の違いはとても大きく出るであろうし、そういうことへの期待も沸く。
    「アソビ」であるとすればかなり難しい「アソビ」である。

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